僕が扱っているものの多くは、古美術、骨董の既存の評価ではさほど高くないものが多い。どちらかといえば民藝よりだとは思うけども、真の民藝好きから言わせたら直球で勝負はしていないだろう。
すべてのものがそうではないが特に生活に密着した道具類は当時の暮らしが今のようではないのでその環境から骨太なものが多い。地方は、ほぼ農業や林業、漁業で生きていたから住環境だって違う。家は、冬に作業する為の土間も広いし、馬小屋が併設されていたりと仕事に密着している。今のように仕事とプライベートに分け隔てないから空間だって分け隔てない。そこに取り入れる道具が簡素で華美な装飾がない大振りで堅牢なものが多くなるのは当然自然な流れだと思う。茶道、華道はもちろんごく限られた一部の人たちの嗜み、華やかな器や着物も都(みやこ)に行かなければ目にすることなかっただろう。
そういった地方のものたちは一概に文化レベルの違いとは言い切れない違いを感じる。どちらかと言えば欧米人で評価されているオセアニアのプリミティブアートを見る感覚に近いかもしれない。プリミティブって言葉自体、日本人の視点とは少々異なるので適切ではないと僕は思っているが、欧米の文化があまりにも多く入りすぎた現代ではキュビズムのアーティスト達が何か感じ取ったアフリカンアートのように少し遅れて同じような思いを地方の古いものに抱くのかもしれない。
人間がつくるものはものは当たり前だが環境が変化すれば出来上がるものに差が生じる。今、日本でつくられている多くのものは工芸品と呼ばれる類のものを含めて(伝統的なものを除く)大きな違いが感じられない。それは、昔と違い、人工的に一定した環境を一時的に保持させているからで、普段の生活で自然に寄り添い生きていくことを忘れてしまったからではないだろうか。自然は人間がコントロールすることが出来ない。なのに今の一般的な社会の発展とは、いかに自然に逆らって人間の利便性を高めるかということに集中しすぎているように感じる。このような日本社会の流れが、人のつくるものにも表れているのだろう。プリミティブとは原始的という意味合いで本来、宗教的、信仰的なものに使う意味合いであるけども原始的なものがすべて文明的ではないとは思えない。自然をコントロールしようとする人間の強欲さのほうがよほどその表現を使うのであれば理性のない原始的な行動であるように感じる。
今後も自然ともに暮らしに寄り添って使われていた美しい道具を探求したいし、日本の様々な地域で自然に寄り添ってできた美しいものがつくられ続けていくことを願いたい。
2012/02/09