魂の純度

青山二郎素朴な信仰の遺物の魅力はなんなのか?色々と考えていると、根本的に現代と過去に生きた人の思考といえば良いのか意識の大きな違いが創られたものにあらわれているのだと思う。現代の価値観、特に経済を中心にした損得勘定がものにそのどの程度あらわれているかで僕の好きか嫌いかはその割合が変化しているのだと思う。

プリミティブという言葉が適切かどうかは判断できないが決して古いものだけにそういったものを感じるわけではない。現代の作家やアーティストにもそういった要素を強く感じる人はたくさんいるし、一般的にアウトサイダーアートと呼ばれているものにそういうものを感じる。極端な話、同業(骨董、古美術商)の選んだものを観てもそれは感じるわけで、人の好みって意外とこの感覚といえばいいのか、意識といえば良いのか、「魂の純度」みたいなことが大きく個人の嗜好という点では関係しているのだと思う。モノが溢れている現代では表面的に「魂の純度」が高いと偽っている確信犯的な人達もいるので、本物を見つける眼、審美眼は全ての人に少なからずも必要な能力になってきているのかもしれない。

人は経験を積み重ね知識を得て大人になっていく、そして様々な場面で、自分に損があるか、得があるかを判断し選択し生きているが、その一方でプリミティブな感覚からは遠のくわけで大概の大人は遠のいたことさえ感じていない。そういったことを再び思い出させてくれるものが、僕にとっては素朴な信仰の遺物のようである。きっと僕以外にもそう感じる人がいるから、感じてほしいと思うからこそこの職業をしているのだろうか。「美とは魂の純度の探求」と青山次郎も言っていたようだしきっとそういうものなのだろう。自分の「魂の純度」を高めなければ、「魂の純度」の高いものは集まらないという基本的なことを最近ようやく感じ始めた。

 

2012/11/15

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