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必然

必然

骨董屋になる前は横ノリ系スポーツを生活の中心にしていたわけで、当時はストリートカルチャーの真っ只中にいた。その頃接していたものと今接しているものは全く異なるようだが実は非常に似いている近いもので今の興味を持って扱っている商品は必然に行き着いたことなのだと思っている。

Jamie Lynn
画像、ドローイング共にJamie Lynn

当時のグラフィティは本当に面白いものだった。ストリートから生まれるものは実にそれをつくったクリエーターの背景がストレートに表現されていたのである。東海岸や西海岸もわかるし、白人か有色人種が作っているのも想像ができるし、作り手のメッセージが強烈にあった。自然の流れなのであろう、オリジナルのデッキのデザインをしたり、ドローイングしたり、それに触発されて、ブランドを立ち上げる友人もいたのはごくごく自然な流れであったのだと思う。色々な民族が住んでいる移民国家の欧米では、日本のように似たような同じものが次から次と出てくるのではなく自分の思想、アイデンティティーやナショナリズム、ルーツ、環境などが絡み合い個性豊かなオリジナリティー溢れるものが多く表現されていたように記憶している。生活のなかから感じるものを形にしていくと作者の思想やメッセージが時に宗教的な意味合いの強いものが生まれたりする。宗教美術よりも時には神々しく、芸術よりも生々しくもあるわけで人間の無垢な感情が表れていた。この感覚は、民間信仰や古い時代の仏教美術に非常に近い感覚で、中世の庶民の信仰のものをみていると僕にとっては同じような感覚に思えるのである。

民藝にも同じ感覚が存在するし、利休の頃の茶の湯も似たようなものがある。体系化される前のモノたちを洞察すると作り手はおそらく客観的にそのまま再現するのではなく自らの眼を介し、感情や美的感覚を表現しているので魅力的なのであろう。そこに無垢のような美しさを感じるのである。

そんなことを考えているとストリートカルチャーと今興味をもって取り組んでいる、信仰の遺物や民藝は段階を経て得た必然性を感じている。自分の興味を持つものは全く異なるものでも実は根底に同じものがあるものが多く人はなぜそれに惹かれるのか気がつかないだけなのだろう。気がついた僕はきっと幸せなのだろう。

 

2013/04/04

vol.131 アッサンブラージュ ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.133 イコノグラフィ-