仏像などを鑑賞するに本来ならば見方など強制するものはなく自由に見れば良い。難しく考える必要もなければ、誰もが認める国宝を嫌いと思ったりするのも自由で、人はそういう権利を持っている。江戸だから駄目とか平安だったら良いとか仏師が彫ったかと民間のものとか全く関係ないのである。骨董屋や古美術商の余計な言葉に耳をかたむけることも必要のないことである・・・と最近までは思っってはいたのだけど、正しく鑑賞し正しく評価するには決まりごとは少なからず存在するのである。このことは無視することはできないと最近になってようやく気がついたのである。特に仏像などの宗教美術は、ただ美しいだけでは仏像としての魅力はないわけで、宗教的情緒や宗教的な感動を観る人に与えなければ優れたものと言えないのである。
作者が、いかにその時代の宗教観、仏像への解釈が美に現れているかを観て感じることができてこそ正しく鑑賞できるのではないだろうか。それを理解できなければ何かとてつもない損をしているように思えてならないのである。作り手にとって目にできない宗教的なものを形に表すのはきっと難しいことだろうし、見る側にも難しい。そんなときに役に立つのがイコノグラフィー(図像学)だ。
人間は少なからず何らかの組織に属しており、それに属しているならば、社会的、宗教的なメッセージを表現することができる。それは一種のアトリビュートでそれを参考に作品にあるメッセージを感じることができるのである。宗教的なものの形に意味があり、そのモチーフの組み合わせによって作者が意図的にメッセージを発していることもあるのでそれを感じることができないのは全くもったいないことだと思う。ただ美しいだけでは決して宗教的感動を与えることができないものだけに正しく鑑賞するにはやはり知識が必要なのだろう。そういうことも含めて鑑賞することによって本当の意味で自由にものを見ることができるのかもしれない。
2013/04/11