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僕のミニマリズムの勝手な解釈

1960年代、米国で芸術家達が色彩や形状を最小限度まで突き詰めて絵画や彫刻を発表したものが、「ミニマルアート」と呼ばれた。余計な装飾を一切排し表現していく考え方を最も一般的に表した言葉なのだと思う。今日では、芸術、ファッション、建築に至るまでミニマムなものに溢れている。僕も当然それらにかなり影響されているし、それらが好きである。でも改まって考えてみるとこのミニマリズムっていう思想は非常に説明しにくいものだと思う(普段、頻繁に使う言葉であるが・・・)。シンプルともまた違ったニュアンスなので考えると迷ってします。建築であっても、ファッションであっても、芸術であっても、音楽であっても無駄を削ぎ落とされ、非常に簡素でどこか静寂さを与えるもので、選び抜かれている感じがする。選び抜かれていると言うことは、たくさんのものから余計なものを振り落とし残ったものと考えられる。ってことはモノが豊富にあればあるほど良いものが残っていくことになるので、まず物質的に豊富な環境でなければミニマリズムの思想は成立しないことになるのだろう。結局スタートは物質的にも精神的にも豊かであるということが条件かもしれないことなので、1960年代にこの考え方がはじまったということに納得がいくのである。それ以前の時代は、すべての人が豊かではなく、モノが少なかったのでこのような考え方に行き着くプロセスを作る環境がなかったのだろう。

Carl Andre
Carl Andre
Untitled (Portrait of Richard Long)
Made from sticks given by Richard Long to Carl Andre and photographed by Andre (1969)
Courtesy Paula Cooper Gallery, New York c Carl Andre

モノが豊富にある時代になったからこそ共感できる思想だと言える。ある意味ミニマリズム=ヘドニズム(快楽主義)という構図だといわれても否定できない。好きなもの、好きな形、好きな素材、好きな音しか選ばない残さないことは究極のヘドニズムなのだ。よくよく考えてみるとミニマリズムでよく語られる茶道だって茶人の究極のヘドニズムを表現していることとも受け取れる。

ヘドニズムだって快楽主義といってしまえばそうだが好きなものを選ぶ、好む行為は、結果多くのものを望まないので、少しの分け前、少しのものになるし、その少しのものの価値観を楽しむことと考えれば言葉のイメージとは異なる質素で倹約みたいな感じにもなる。

ここ最近の多くのミニマルな空間、建築、製品は確かにミニマルな印象を感じるがキャラクターや強い印象を感じないのはそれらを作ったアーティスト、製作者や選択者に強いヘドニズムを感じとれないからなのかもしれない。

 

2011/05/5

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