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有名、無名

無名骨董、古美術に限らずものの良さを誰かから聞く時、教えられる時、必ずと言っていいほど、誰かしらの名前が出てくるわけではあるけど、この名前が有名であればあるほどかなり自分の眼を曇らせるものである。

カリスマという言葉があるようにこの世には類稀な眼やものを生み出す才能を持った人が存在しているのは事実ではあるけど後世に残るのはほんの一握りの人たちだと思う。 ちょっと前までは伝統や格式、どこで修行したか、派閥や権威などの方に偏りすぎで色々なものが世間の人々とは考え方がかけ離れすぎて衰退が加速していき、それに異を唱え自由な発想や活動をする人たちに注目が向けられはじめ、古いもの、工芸、芸術はより多くの人に理解されるべくわかりやすく、シンプルなものへと変化していったと感じる。そういった考え方をもつ人が主流となった現在は、その過渡期なのかもしれない。僕個人の意見だが、シンプルでわかりやすいもの、見る人、使う人に知識があまり必要としないものは、ものの持つ意味に奥行きがあまりないので、ものを伝える時、どうしてももの「作品」ではなく、すぐに、人の方(製作者など)へ話題は変わっていってします。結局は個人、セルフプロデュースの上手、下手が、本来関係ないものへの評価に加味されるわけである。

そういう部分は非常に重要なことではあり、僕も興味が沸くことではあるが、ここ十年ぐらいのマスコミなどをみているとカリスマと呼ばれている人たちの私生活などの写真や記事が大きく取り上げられ、注目は作品から離れ、そのカリスマのファッションセンスやライフスタイル、インテリアのスタイリング、行きつけのお店などになってくると僕の興味は少しずつ醒めてくるのである。確かに、読者や見る人に親近感を与えるのは必要なことではあるし、カリスマ達がセンスがよいのも素敵なことで知りたくないわけではないけど、今のようにどこを見廻しても同じような雰囲気には正直飽き飽きしてしまう。このような風潮は裾野を広げたと言う意味では大成功したと思われるが、全体的な質の低下につながっているのは言うまでもないだろう。ものがすばらしいと評価されることと、名前が有名になることと一体ゴールはどちらなのだろう?

先ほども書いたように、今はその過渡期。僕以外の多くの人もきっと同じような思いでこの流れを見ているだろうと思う。

僕は少なくても、ものに対して、何らかのメッセージを感じたい。作者や選んだ人がどういう意図を持っているのかを自分なりに想像することが楽しいと感じているし、醍醐味はそこに存在する。余計な情報は要らない、そのものには直接関係ないと思われる奥様のファッションセンスまで見たくないわけである。今の時代、マスコミで良く見る「名前」は、前回ちょっと書いた「味」みたいなものかも知れないので、「もの」みるときには考えないようにしたい。良い物には有名、無名は関係ないと信じている。

 

2012/11/29

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