否諾

骨董、古美術、古いものに限らず、美しいと感じるには「否」から「諾」に変化する境界線みたいなものが各々に存在する。この境界線は意外と厄介なもので僕はこの部分は実存主義のようなところがあるのではないかとしばしば考えている。自分の美しさの価値観は、本来何も意味を持たないもので実は本質は存在しないのではないだろうか?グローバリズム、新自由主義、アメリカナイゼーションの下で生まれ育った僕は昨今の世界情勢や日本で起こった様々なことを通し、社会や既成の価値観に絶望しているかもしれない。自分の置かれた環境によって、美しさの価値感の境界線は微妙に変化し続ける。決して、本質主義のように必然的、恒久的によってその境界線が維持されているわけではない。今のように、世界情勢や自然環境の変化、偶発的に起こる事象によって物の価値が簡単に変わってしまう時代において固定的な本質で物事を判断するには些か無理があるように感じる。

ean-Paul Charles Aymard Sartre

ean-Paul Charles Aymard Sartre

生まれてきたものに意味があるのではなく、意味は後からついてくるものと考えた方が自分の哲学や価値観を考えた時に納得がいくような気がするし、今の早すぎるトレンドの変化も説明しやすい。ものの流行自体、人の評判やマスコミなどの外部の影響によって大きく左右されるし、美しい価値観だってそういうものに関係し変化していくのは周知の事実。本質とは実に空虚なものである・・。そんな中で自分にとっての美しさを探求することは一筋縄ではいかない。

どちらかと言えば無神論者で、実存主義的なことを考えている僕だが、自分にとっての人生の意義や美しさの意義なんかは存在してほしいとなんとも我がままに思ったりする。それ故に、信仰の遺物に惹かれるのかもしれない。果たして極端に矛盾している僕の美の境界線はこの後どう変化していくのだろう?

*ちなみに生まれより育ちに重きを置く日本の古美術界の価値観は間違いなく実存主義であると僕は思っている。世間一般に評価や精神性の高いって言われているものほど本質主義のかけらもないような気が・・・(あくまでも個人的に貨幣価値に換算したときの話)。

 

2012/03/01

vol.75 北のたくましさ ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.77 Shepard Fairey (シェパード・フェアリー)