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スペクタクルの社会

スペクタクルの社会ドゥボールの言葉は超消費社会の限界を感じている現在、共感できる部分は少なからずともある。今の日本に住んでいる人であれば、尚のこと感じるかも知れない。特に日本が高度成長期を過ぎ経済的に豊かな時代に成長した僕らにとっては現状に不安を感じる人は多いはずだ。団塊の世代にとったらドゥボールといったら偏った政治思想を持っていると思われそうだけど、資本主義の限界を感じている現在でならば当時とは全く異なった視点で考えることが出来るのではないだろうか。

本音と嘘があまり使い分けていないと感じられること、消費社会に対して直接的なメッセージを感じることができることが彼の作品に興味を抱く理由なのかもしれない。

災害、環境汚染、戦争、自然に対してあまりにも無知でリスペクトしていない現代の日本社会に対して疑問や不安は長年感じつつもストッパーが運よく外れずに何とか今まで維持されていたのだろう。震災を経験した我々は自然の驚異を改めて認識し、人間の欲求に対して今まで通りではいけないと感じ始めている。

メディアとそれを観る人間の関係性はドゥボールの時代より大きく変わりつつあるけど新しいツールはまだ創世記で明確な方向性を決めるのは個人の選択にあるのは当時と全く変わらない。イメージによって仲介される人間関係はより複雑化し、細分化し、仮想と現実が入り乱れ混沌としているので、個人の判断することはより難解になっているかもしれない。

スペクタクルの社会メディアをはじめ、人の欲は様々なものに複雑に絡んでいる。もちろんアートだって例外ではないし、古道具、骨董だって例外ではない。ちょっと前までは雑誌やTVに取り上げられば良いイメージが読者の意識に埋め込まれ、どんなものでも良いと思い込んでしまう人も多くいた。オークションで高額に落札されたら急に好きになるものだってある。そこに誰かの利益が生まれるのであれば少なからず意識を操作していることになると思う。でも、それを操作されていることと明確に線引きするのは困難。感じ方は人それぞれ違う。

でも最後に選ぶのは自分自身。雑誌を買うのも、TVのスイッチを入れるのも、本を買うのも、ネットサーフィンも、ツイッターも見ることを決めているのは自分の意思であること。

それにしても自分にとって純粋なものって認識するが本当に難しい。僕にとって古道具を通じて人と会って感じることはそれを確認する作業なのかもしれない。

 

2011/08/24

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