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祈りの造形は清いものなのか。

 

仏並土面
「仏並土面」
公益財団法人大阪府文化財センター

「祈りの造形」と表現すると何だかとても美しいことのように感じるが、それは現代人の感覚に沿った美しさを感じるだけで過去の美の感覚と一致するのかと言われたらそれはきっと一致しないだろう。「祈り」と言う表記は宗教の枠を超えた人間の根源的な欲求による行動のような気がする。いわば人間の本質が現れる行為とも解釈できる。

戦後の欧米の影響を大きく受けた今の日本人が想像するイメージはキリスト教的な場面を目に浮かべる人がきっと多いと思う。仏教には祈りという行為はないことになっているのでそうなってしまうのかもしれない(もちろん違う形での方法はあるが)。この職業につき、日本の色々な祈りの造形を目にしているわけで僕には、美しさを感じるものは多いが、それと同じように怖さ、不気味さを感じるものも多い。これは、祈りは本来、文明の初期に発生したシャーマニズム的な呪術的な要素を多く含んだもが根本にあるからだろう。明るい部分の裏側に必ず暗い部分が存在し、そのものを見る際に暗い部分を見るように努力しなければその当時の人々の気持ちは決して理解できないような気がする。それは、きっと祈りの造形だけではなく存在する全てのものにあるものなのかもしれない。

有力な寺院の建築物、仏像などお金や手間を惜しげなく費やしているわけであるが、現在すばらしいとされているものは権力者が作ったものがほとんどだ。ごく一部の人間の望みのもので、多くの庶民が望んで作られたものかと言われれば決してそうではないだろう。日本以外の歴史的名建造物、美術品のほとんどはそういったも、フランスのベルサイユ宮殿だって今やフランスの美しいものの代名詞であるが、当時は一部の権力者の贅沢の象徴だったわけで庶民は見るたびに怒りが湧き上がっていったもののだろう。ある意味、欲にまみれた醜いものの象徴の側面も持合わせていたはずだ。

時間と共に物や人のイメージや価値は変化していくのである。祈りの造形も例外ではなく、権力闘争や布教に大きく影響され実は人間の欲がもっとも表現されているものの一つで、今僕らが目にして感じることと、当時の人が観て感じることはきっと異なっているだろう。

美しさの裏側にある不気味さや恐怖や醜さ、その反対の怖い、醜いと感じるものに潜んでいる美しさ、それこそが人の真の姿なのかもしれない。

 

2013/03/07

vol.127 今だからこそ日本美術 ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.129 私的dance考