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マルセル・デュシャン的骨董思考

以前にもちょっと書いたが、ここ数年、骨董、古美術、古道具を現代アートの捉え方で解釈する愛好家、業者が多い。と言ってもはたしてどのように捉えられているかを考えると「アートっぽい」とか「枠に囚われていない」、「既成概念に囚われていない自由な発想」とかの曖昧な説明しか出来ない自分に気がつきはっとしたことがあった。業者は表現者ではないので、そこに理由はいらないかもしれないが、このようにインターネット上でHPやブログをすること、店(空間)をつくってお客様を迎え入れること、雑誌に取り上げられ記事になること、自分が好きなものしか売らないことなどが既に表現していることになっているような気がする。以前より評価されているモノを豊富に持ってお店に置いておけばいい時代は既に終わっていると思う。どんな、商売でさえある意味、表現者にならないと駄目な時代なのだろう。

マルセル・デュシャン
「LIFE」 photo Eliot ElisofonFebruary 1952

さて、古いものの業界で言うアート的なものの捉え方って一体どんなことなのか?まるで新しいことのように思ってしまうが、芸術の世界では既に100年前から言われていることに置き換えてみるとわかり易いのかもしれない。

20世紀、ピカソと同じくらい影響を与えたと言われている「マルセル・デュシャン」芸術家、芸術評論家そして前衛的挑発者は物質的な対象だった芸術作品に疑問を投げかけ、観念的なものとして提示した。簡単に言えば、着眼点を「制作」から「思考」に移し変えたということだろう。

骨董に置き換えれば、ものの歴史を勉強し、産地や時代を吟味し、たくさんものを見て本物と呼ばれているものを仕入れて売ること、買うことから、自分の哲学や詩的に描いたものを物質にしたときに近いものを仕入れて売ること、買うことに変わっているということかもしれない。ややこしく考えなくても、イマドキの方々は既に無意識で行なっているごくごく自然なことだと思う。自分の思考や哲学で選んだ既にあるもの(古い既製品)を店で展示する、もしくはネット上のHPで自分の美しいと思う商品の画像をのせることはデュシャンの「レディーメイド」に似ている行為なのかもしれない。

骨董と芸術家の接点は意外に多いが、骨董界の排他的な体質や既成概念といったものは意外に頑丈でなかなか壊れないものだったが、ようやく最近崩れかけ、新しいものが生まれだしている過程なのかもしれない。しかし、今までのものがすべて崩れ無くなるのではなく、2つの思想が共存するからこそ新しい価値感は存在する意味をもつのだと考えている。古美術、骨董は終わっている!と言う人もいれば、いやいや古美術、骨董の価値感こそが本物だ!と言う人もいなければ成り立たない。すべての人が同じ方向に流れていったら全くもってつまらない。

2011.01.20

vol.17 マーク・ゴンザレス ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.19 日本の知られざるプリミティブ・アート