社会は模倣に満ち溢れている。昔から有名な人たちが言っているとおり、「芸術が自然を模倣する」(自然が芸術を模倣する?どっちだったか迷う???)おそらく、その通りなのだろう。綺麗な景色を見て絵画に描く、日常で起こった出来事を物語にする、美しい人間を彫刻で像を作る。太古の昔より、人間がしていたことで現在も受け継がれていることだと思う。まあ、その逆で芸術作品をみて、自然の中にそれを見つけることもあるわけで、模倣することは最初はきっとそんなに悪い言葉だったに違いないと思う。でも、模倣という言葉の現代のイメージは決して良くない。それは今の模倣し作られているものの自然との距離感が原因になっているように思えてならない。
自然との距離感とは、作り手がいかに自然に近い場所でものを感じたかが重要になっているのではないだろうか。聞いた話やただ見るだけでは決して表現できないことがあるように思う。骨董業界に身を置く僕はどうしても好きな古いもので例えてしまうが、ものの源流、プリミティブな発想で作り上げられたものに良い模倣を感じてしまう。時代が若くなるにつれ、どうしても自然界とのダイレクトな交流を感じないものが多いのでどうしても魅力が落ち悪いほうの模倣を感じてしまうのである。今のものに関しては、模倣というのかコピーが蔓延し、コピーすることや人のデザイン、ましてや思想まで悪い模倣をする人や企業が蔓延している。そういうものは間接的な模倣が多いので「あっ、この部分はあそこで、この部分はあそこか!!」と巧みに組み合わせているものから、全くのコピー、コピーのコピー、コピーのコピーのコピーまで純粋な模倣を見つけるのは困難な時代である。この業界だってそうである。ものをつくりは出さないが、店主の視点、どのような思いや考えがあってこのものを選んだのか敏感な人は見抜くわけで、誰の真似か、お金の為かはきっと一目瞭然なのであろう(恐ろしい・・・・)。僕は類まれなセンスを持っているわけではないし、誰にも負けない審美眼を持っているわけでもない、かといってトレンドやマーケットの最新情報を持っているわけでもないが、自然になるべく近い距離に居て、何かを感じ、その感じたものからものを選んで行くことが自分らしさかと思っている。自然との距離を縮めることが、遠い昔の作り手や当時の人の思いを感じ取る一番の近道ではないだろうか。決してメインストリームではないがそういう思いが確固たるオリジナリティーになるのではと真剣に思っている。
2013/07/18