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奈良原一高

王国-沈黙の園・壁の中
王国-沈黙の園・壁の中(1978年)表紙より転載

前回は「土門拳」について書きましたが今回は同じ写真家の「奈良原一高」の作品を観て感じたこと綴ってみます。

雑誌で写真を見て何となく惹かれた。写真の世界では大御所であるようだが僕は最近になって、その作品をはじめて見た。北海道トラピスト男子修道院の「沈黙の園」と和歌山の婦人刑務所の「壁の中」などから構成される写真集「王国」の中に、なんとなく落ち着く空気が写しだされているものが数多くあった。専門家ではないので詳しい技術的なことはわからないが、表現方法、被写体、世代、コンセプトは異なれど「土門拳」の写真と同じような空気感があるように思える。隔離された空間を撮ったにもかかわらず、写真には写しきれない別な広い世界を感じる。深い信仰心であったり、罪を犯したもの外の世界への思いみたいなものだろうか。全く正反対の思いのはずだが、写真でみるととても似ているから不思議である。人間の意識のなかには、脆弱な細い線のようなものを基準として考える傾向があり、自らがその線の右側か左側かで良いも悪いも判断してしまう。その線は外からの情報や古くからの一般的な倫理観や世間体などの力に弱く、影響を受けやすい、それによってゆらゆらと固定せずに動いているのでは?そんなことを考えさせてくれるような力があるように感じる。僕自身の感じ方は、ある一線に近くなるにつれその魅力が増し、その線を越えてしまうと全く感心も湧かなかったりする。アーティストのような表現者には綱渡りのようなバランス感覚が重要なのではないだろうか?作品を崩したり、わざと外したりするのはかなりバランス感覚が良い人、技術力のある人がやることだと思う。シンプルに物事に向き合っていると小手先だけでは手に負えないことが多いのでないだろうか。単純な作品になればなるほど観る人にストレートに伝わるのではないだろうか?「素人っぽい?」「アートっぽい?」僕自身良く使う言葉だが、素直にそう感じているのだろうか?理由はわからないが「奈良原一高」の写真を観てそんなことを思った。

 

2010.12.16

vol.12 土門 拳 ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.14 壁への思い(日本編)