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ハイVSサブ

ハイVSサブ

僕は、十代の頃より日本人が持つ独特の組織形成(日本だけってわけではないが)に強く疑念を抱いていた。特に、本来、自由であるものものなのに、上の一部だけが満足している都合良いルールを作り、組織化し、最終的には階級をつくり、上層部が下層部からお金を掬い上げ、組織の中で本来の活動から関係ない政治に力を持ったものが成功者のような評価を与えられ、権力を持っていることに、どうしても納得できなかった(年功序列も)。皆、不満を抱えつつもその組織から離れようとしない大人も目の辺りにして憤りを感じていたし、それを非常に強く感じた出来事が何度かあり日本から早く飛び出したいと感じていたので高校卒業後、海外に居場所を求めた。そういう思いがあったからなのか、興味を持つものはアカデミックなことからは程遠いカウンターカルチャーへと向かっていった。特に横ノリ系の方へどっぷりと嵌っていったのである。その為未だにメインストリームに乗ることができずにいるわけではあるが、古いものをみる視点に関してもその頃の影響が強く出ているのは否めない。ストリートに置いて一番リスペクトされる部分は個性である。個性は勿論、その人の人種、生い立ち、環境、思想、能力を含めたものであるから、マスメディアで頻繁に見る様なものの真似や誰かの真似であっては共感は得られない、と言うより「ダサい」ことなのである。多民族国家とはいえ白人が優位な欧米社会に住んでいても、日本ほど窮屈さを感じなかったのはオリジナリティー(人種を含めて)を尊重してくれる社会でもあったからではないかと思う。

オリジナリティーを考えていくと僕は自分のルーツを考えてしまう。自分自身を創造するのは育った環境とDNAに組み込まれた記憶がきっと関係していると考えているからだ。そんなことを考察していくと自分の判断による真贋も理解できるようになると思う。ハイカルチャーなものであってもルーツは土俗的なサブカルチャーなものであったり、サブカルチャーであっても芯にはハイカルチャーより精神性の高いものがあったり、ストリートのものだったのが、数年後ファッション界やアートシーンに登場しスノッブ達に好まれたりするわけで境界線は紙一重なのである。結局、それを決めるのは自分自身で、他の人がつける優越は全く関係ないはず、オリジナリティーを追求していけば他とはきっと異なるはずと思っているが、ここ最近の日本はどの業界も同じような感じで,、誰かの真似っぽいものや、コピー蔓延している。そして、以前にもまして、誰かに気を使っているような本心を言えない雰囲気に窮屈に感じている。個性が認め合える社会こそが平和な社会のような気がしてならない。そろそろ自分を曝け出そう!!ハイもサブもない!!

 

2013/08/15

vol.150 Aminism ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.152 ものと人