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ものと人

ものと人骨董や古美術などを扱っていて僕は源流は何かという疑問が湧いてくることがしばしば。それは何かと考察していくと、その興味は「もの」から「人」へはと興味が変わっていくことがある。民藝や仏教美術を考察していく上でも、面白さが現れるのは違う文化、人と人との交流した後に生まれるものではないかと思う。そしてその二つの文化がよりよいものを選択し融合し、環境や時代合わせてブラッシュアップされていきものは完成される。また、現在において過去のものを見る上でそのものをどのような視点で見るかで見え方も変わってくるものだ。完成されていない未熟なものであっても、その時の世相によって技術よりも精神性の高さや純粋さがあったりする。日本でそれを強く感じることが出来るのは、仏教と共に伝来した大陸の文化と日本独自の文化の融合の過程に生まれた中世頃のものと地方の民間信仰のものだと思う。民藝と呼ばれる民衆の中で生まれ育ったものにおいても、それが生まれていく過程の世相を感じさせてくれるわけで、元々あった技術や素材にどのような新しいものが混ざっていく過程にもそういうものを強く感じれるからおもしろい。

また、それらとは全く逆のもので、時代や他の文化に影響されなかったもののも、同様に面白さを感じる。人の純粋さが表れている様でそういったものは技術や素材などに関係ない精神的な強い力を持っているものにも同様に強い興味を感じる。理屈では説明できない本能的なもの、原始的な名残を感じるからであろう。

古いものに興味を持った頃はほぼビジュアルでものを見ていたし、ややこしく考えるのはめんどくさいと思っていたが、骨董、古美術は多少知識がないと楽しむことが出来ないということがここ最近ようやく気が付いた。そして、ものへの興味は、それを作った人、使っていた人、その時代に生きた人たちへ変化している。ものを通して過去に生きた人々と交流したような感覚を得たいのだろうと思う。

 

2013/08/22

vol.151 ハイVSサブ ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.153 かをるやま