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フルクサスのもたらしたもの

フルクサス 1950年初頭、芸術が合理主義的、商業主義的にシフトし人々の生活から離れはじめたころ、リトアニア系アメリカ人のジョージ・マチューナスがそれらの流れに革命的な思想をもって芸術活動しているものたちを支持し「FLUXUS(フルクサス)」と名付けた1960年代のネオダダ、ポップアートと並ぶ前衛芸術。言葉の語源はラテン語で「流れる」、「変化する」、「靡く」、「下剤をかける」などの意味があり、マチューナスの定義は当初、政治、社会までに至り過激すぎて賛同するものがいなかった。具体的にどのような活動かといえば、芸術と日常の境界を取っ払い音楽から日用品に至るまで行為を広げるといった感じ。いわば、芸術の原点回帰。このように書くとなにやら難しく感じるが、マスコミやインターネット、ワークショップとかギャラリーで個人的な活動を発表できたりと専門家ではなくとも、今や広い意味で誰もが芸術活動を行なえるわけでフルクサスの基本姿勢が人々の意識に既に浸透されていると感じる。

古美術、骨董も時は同じくして、特別な人たち、ブルジョワのような人たちのものだけではないものに少しずつ変化し、誰もが楽しめるものになってきたのもマチューナスの影響は少なからずあるだろう。既に現在、古いとか新しいとかの区別も曖昧で古美術も身近なアートに変貌しつつある。彼は近い未来の人々の美に対する意識を予想していたのかもしれない。

僕が彼の活動で1番興味を惹くのが「フルックス・ハウジング・コーポレイティヴ」。ニューヨークのロフトを改造し、内装を整え、芸術家に廉価で売るという事業。僕は彼を知らない十代の後半に雑誌でみたソーホーのロフトが見たくてソーホーに行った経験があるので彼の影響が遠く日本の片田舎まで浸透し影響している事実に芸術(アート)のもつ力の強さを体感することができた。そして、今、インテリア雑誌を観ていても芸術関係の方でもない、インテリア関係者でもない、ごく一般の好きな方々が、自宅を披露し、ソーホーを思わせるようなインテリアのなかで生活している様子は決して珍しいことではなくなった。先進国のインテリアを見比べてみるとハード(建物)には、未だ違いはあるが、ソフト(家具や装飾品)に至っては大きな差はなくなってきたのではないだろうか。日本で手に入らないものはほとんどないことだし・・。毎月の雑誌で多くのそのようなインテリアが紹介されていることはまさにアートの垣根がなくなったことなのかもしれない。専門家と一般の差もあまり感じない、プロ並みの素人もいるし、素人並みのプロもいる。個人の考え方ひとつでアートになってしまう。ファッションの世界だって、雑誌のモデルが読者だったりとより近い感じがする。どんなものでも、行動でも、発表する場所、捉え方によってはアートとなってしまう時代が到来している。現代も古典も専門家が区別したいだけで、ほとんどの人は、既に、すべてのものを同じ目線で、ただ好きか、嫌いか、心に響くかでシンプルに判断しているのだろう。でも、単純に感じるのはどうしてかの理由、「自分はなぜ好きか?」を思考するステップが重要であるように思える。そこに至るまでの環境や経験、知識や感情といった自分自身の内面と向き合う難解な作業が精神性を高め、作者の真の意図を自分なりに理解することが大事なのかもと最近思う。シンプルな表現は実は複雑な事柄が絡み合ったり、複雑な表現は実はシンプルだったり、その時の気分や考え方次第で別な見え方だったりもするからまた面白い。芸術と呼ばれるものをはじめ、人が作ったもの通して自分自身の内面を整理し見直す行為を促すことが、美しさやデザインより大きなインパクトを与えているのだろう。

フルクサスをはじめとする前衛的な芸術活動はアプローチの多様性を提示し、すべてのものを同じステージで思考する現代の下地つくりに大きな役割の荷っていたのかもしれない。

フルクサス

 

2011/03/03

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