僕は特定の信仰をもっていない。神社に初詣に行けば、お寺も行くし、クリスマスも祝う、社寺仏閣も好きだし、教会やモスクの佇まいも好き、詳しくは理解はしていなけど神道も仏教もイスラムも儒教もカトリックもプロテスタントも良い教えを説いていると思う。もしかしたらこれが現代の日本人らしい考え方のかもしれないけど・・・。欧米各国で信仰されているキリスト教は神との契約を基に信じた人を救済する立場をおおよそとっているので教えに対して人々は感心は高いけど、日本は神道も仏教もそういった契約みたいなものがないので信仰しているものに対しての教えはさほど感心がない国民性。良くも悪くもそういう環境が信仰に対して柔軟な体質を築いてきたのだろうと思う。
そんな中で宗教の観点ではなくアートとして日本の仏教美術を自分なりに色々観ていると彫刻のひとつとして仏像に感心が向くし(ほとんどの人がそうだとは思う)、単純に魅力的な仏像に阿弥陀如来が多いのでちょっと気になる存在になってしまったのだろう。そうなると色々と知りたくなってくる性分、信仰と関係なしに最初は観ていたつもりだけどやはりその部分を少しは理解しないと全体を理解できないことに気がつくまではそう時間はかからなかった。
阿弥陀如来像の見た目は他の仏像に比べると、衣装はシンプル、装飾品も少ないのに実は仏教界ではえらいと言うか徳が高い。どうやら、シンプルな仏像ほど徳が高いらしい(多分・・?)。それと他の仏像よりもふくよかな印象も感じるし、どういった仏様であるのかウィキペディアでみてみると・・。
・・・阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、大乗仏教の如来の一つである。梵名は「アミターバ」、あるいは「アミユータス」ともいい、それを「阿弥陀」と音写する。阿弥陀仏・弥陀仏ともいう。また、梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して無量光仏・無量寿仏ともいう。空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。西方にある極楽という仏国土(極楽浄土)を持つ(東方は薬師如来)。(以下省略)・・・・・・
となっている。浄土宗・浄土真宗では、どのような人間も心から極楽浄土に行きたいと願い念じれば浄土にいけると説き、中世の日本でその解釈の仕方が庶民に支持された。その考え方は、古来日本が持っていた「魂は山に帰る」(柳田國男が言っている)日本の土着信仰とも合わさったとの見方もあり、それらも大きな要因となり人々に愛される仏になったようである(説明間違っていたらすみません)。阿弥如来ひとつにとっても日本の環境、特に自然によってオリジナルなのもの(伝わってくる過程においても)の解釈を微妙に変えてしまうようだ。人の解釈は、個々も違うし、地域や国によっても微妙に異なる。そのことを理解しなければ価値観は共有できないのかもしれまい。聖書だって、コーランだって生きる知恵のヒントを与えてくれるものと考えれば参考に出来るし、環境によって柔軟に判断すれば良い。結局、最終的判断は己がくだすしかないのだろう。
すべての人を極楽浄土に向かわせようとしている阿弥陀如来を古くから敬う日本人はことさら信仰に関して柔軟な考えをもった人種なのだろう。仏教徒ではないのに阿弥陀如来の好きな僕は思いっきり日本人なのかもしれない。
2011/05/19