平安から鎌倉へ、あらゆる価値観が崩れ、新しく何かが生まれていった時代に日本の彫刻界に大革命を起こした天才仏師「運慶」。仏教美術に興味はなくても聞いた事はあるはず。
昨年、東京で行われた阿修羅展は入場者100万人を超え仏像の魅力が再び人々の興味を抱かせているようであるが、その発端はちょっと前に運慶の大日如来像がオークションにて12億8千万円で落札されたのに拍車をかけたのは少なからずあるだろう。
信仰そのものとも言っていい仏像と彫刻としての美術と日本人がわりと嫌がる数字(金額)、相反するものが複雑に絡みあった結果が今日の多くの人たちの仏像への興味かもしれない。正直、僕だって仏像を観にいったら「これいくらになるだろう?」とマーケットのことが真っ先に頭に浮かんでしまう(職業柄でしょうが、いつも反省する)。とはいえジャコメッティの作品が94億円で落札されたことを考えると日本の歴史上最も重要な彫刻家が四分の一に足らない値段だとは日本人としてちょっと悔しい部分もある(うっ・・、また金額を考えてしまった!)。
マーケットの価値と純粋な文化的な評価は経済が潤沢に動いていればその相互関係に大差はなく作用するので問題はないかもしれないけど(過剰評価は多々あるけど)、現状だと人々の評価や歴史的背景は必ずしも希望する数字に反映されないのだろう。
今の時代、金額に左右されない価値観を見出すのは非常に困難だけど、日常の中に美や楽しみを感じる事はどんな時代であれ難しくないと思う。
運慶の作り出したといわれている鎌倉のリアリズムは貴族から武士社会に変わった事が大きな要因といわれている。仏像の力強さ=武士の信仰ってことになるかもしれないが、エネルギーに満ち溢れた運慶の仏像は武士だけではなく、庶民達に何か大きなものを感じさせたに違いない。運慶も一部の人間や宗教上の背景だけではなく、苦しい末法の世を生き抜く多くの庶民に何かを伝えたかったはずだ。800年以上経った現在、当時と同じように苦しい末法の世なのかもしれない我が国「日本」、運慶のメッセージは今尚、力強く、色褪せていないと僕は感じている。運慶の写実性は大衆への思いから生まれたものと信じたい。
2011/08/11
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