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等身大のリアリティ

普段通りお正月を過ごせることが出来たことに今年ほど感謝した年はない。
今までの僕は、社会(経済)が何もしなくても良い方向へ向かっていくような夢心地の中で生きていたのかもしれない。戦争を経験したこともなく、飢餓の現状を自分の目で見たこともないし、ましてや自分が死に直面するような出来事もなく幸せに暮らし、何の根拠もないがそれがずっと続くように感じていた。

生駒聖天昨年、日本に起こった大震災は被災した人はもちろんのこと、日本に住む人に今までの価値観に対して大きな空虚感を与えた(今尚与え続けている)。この現状を戦後と比較することがあるけれでも、大きく異なる部分が悲壮感という点かもしれない。僕は、1973年生まれなので戦後直後のことはわからないけど色々なものを読んだり、見たりすると敗戦しながらも社会全体が明るいイメージで進んでいたのではないかという印象を強く受ける。それに比べて現在は物質的に豊かではあるけれども素直にあっけらかんとできない強い悲壮感がある。ネガティブに囚われていると感じるかもしれないが、僕はこの悲壮感こそリアルなものではないかと感じている。

今の日本はそのリアルなものに蓋をして見て見ないふりをしているような感じているとでも言ったらいいのだろうか、どこかすっきりとしない。今こそ、戦後日本が経済成長するために蓋をしてきた多くの矛盾をはらんだ問題の現実に直視していかねばならないのかもしれない。ポジティブな捉え方は実はネガティブな裏返しだったりすることもあるのだろう。
この感覚は古いものを扱っている僕が何の根拠もなく「おお、もしやこれは!」と感じたものが、全くもって、たいしたものでなかったものだったときの悲しい感覚に非常に近い。身の丈にあった現実と言えば良いのか、結局、古いものも不思議とそれを現実的に必要とする人へ最終的には集まっていくように感じる。自分の眼が悪く、買ってしまったものでも、きっと通過点で必要な事なのだろう。「因縁生起」と釈迦の教えの通り、社会全体も僕の周りで起きている些細な出来事も、遠回りしても近道でも結局はひとつの答えを導きだすのだろうか。

その答えはまだ先だろうから、まずは等身大の現実(リアリティ)と向き合いなければならなそうだ。

 

2012/1/5

vol.67 二重のイメージ ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.69 Blind side(ブランドサイド)