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二重のイメージ

マルセル・デュシャン単一でありながら二重のイメージを持つもの。そういったことを強く感じるものは魅力的だと思う。

モノの見方は、宗教的なものが色濃く関係していた時代から批判主義的なものに変った。直接的だったものが間接的になった言えるのかもしれない。この表現方法や見方を人々に広く浸透したのはマルセル・デュシャンの影響なのだろう。無宗教的でありながらも、光と闇、静と動といった誰もが感じる精神的イメージの境界線がはっきりとしていなく、ひとつの世界に二重のイメージが存在し明確な答えを直接的に観るものに与えない。何かを提示しているかのようなイメージが、観る人の側に勝手に答えを委ねているような感覚が宗教的でないのに精神に訴えかけているのが理由なのかもしれない。一神教を近代的な宗教観としていた欧米ではデュシャンの手法は新鮮だったに違いない。

日本も欧米化が進み、西洋的思想を理解できる国であるけれども、多神教が存在する日本では宗教観は大きく異なるのでデュシャンの手法はより日本人に近いと思っている(ただ、批判的な部分は大きく違っている点だと思う)。しかし、今の日本(世界も・・かな?)に溢れているものはデュシャン的な手法を感じるものが多くないのが現実ではないだろうか。もしかしたらより直接的な表現方法に移行しているのかもしれない。おそらく反応の速さを求めるあまり観る側に考える時間を与えず答えを出してもらうとする欲求からではないだろうかと感じている.。反応の速さは時間の短縮と言うこと、時間の短縮はコストの削減。結局は高い経済性を求めることによってそうなるのかもしれないと思うと少し淋しい気分になる。ちょっとぐらい批判的なものを感じたり、ユーモアを感じさせてくれるもののほうが面白いのに・・と思ったりする。そう感じる僕がひねくれているのだろうか。それとも新たな表現方法に変わりつつあるのだろうか。

マルセル・デュシャン骨董、古美術と呼ばれるもの魅力のひとつは、そのものにある背景だと思っている。無条件で外見などの見た目、自分の感覚だけで気に入り、長年飽きずに持っていられるものってなかなか出会いないし、そのものが興味深い背景を持っているものだったら誰もが嬉しいに決まっている(そう思っていますが・・)。モノのイメージとその背景のイメージを持つ古いものは、デュシャンの作品を見るような感覚か必要なのかもしれない。ただ、従来のガチガチの既存の評価に頼りすぎてしまうと批判主義的なものの見方が、薄くなってしまうのでアメリカンナイズされた日本人の僕には少し面白みに欠けたりする。イメージのバランスは時代とともに変化するのだろうけど、作り手の本性というか人間臭さみたいなものを個人的には感じたいし、そんなものたちと今後出会っていきたいと思っている。

今年最後の通信になるので来年の抱負。
今後は少しでも良いからの二重のイメージを感じ手もらえるようなモノを紹介できる意識を養い、精神を鍛えていきたい(できるのだろうか??少なくても来年だけでは無理です)。

 

2011/12/29

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