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ケミカルウォッシュと根来

ケミカルブラザーズ
ケミカルといえば何といってもケミカルブラザーズ。画像は全く根来と関係なし。

全くもって個人の主観である。人には好き嫌いがあるわけで決して批判ではない。僕が好きで、誰かが嫌いだから、世の中成立するのであって、個人の好みがあるから楽しいのである。骨董なんてものも個人の価値観の差があるからできるものだ。

そんでもって、今回は根来塗というのか、根来風というのか、新しいものでありながらも時代が経過したような風合いがある漆器について考えてみた。正直、僕は嫌いである。折角、堅牢な塗を施したのになぜダメージを与えるのか?不思議だ。わざとらしい擦れに黒の中塗りが朱塗りの上塗りから見え隠れする様はデニムのケミカルウォッシュによく似ているかもしれない。(最近、また巷で見かけるが、僕はファッションには疎いほうだがかなりの上級者アイテムのような気がする。)僕はケミカルウォッシュがちょうど世に出てきたころにティーンエイジャーで、当時このトレンドに惑わされたので、工芸のこの時代根来風?と言われるものを初めて見たとき「ははーん、これは惑わされんぞ!」と心の中で唱えた。骨董業界で厳密に言えば、時代を作為的に施したものは「贋物」である。しかしアパレル業界のように考えれば新しいスタイル、価値観と言えよう。工芸の世界では、どう捉えられているのだろう?でも、根来はなぜ、茶人が評価したのか、人々はなぜ魅了されたのかを考えれば本質は容易に理解できると思う。長い時を経て出来た味わいだからこそ珍重されたもの、それを手を加えて作ってしまうのは本末転倒である。自然に色落ちしたヴィンテージのデニムが綺麗と感じるか、ケミカルウォッシュを綺麗と感じるか。インパクト重視のぱっと見のヴィジュアルは、消費社会にとっての産物かもしれない。何の味もついていない、まっさらの根来塗りは「数十年後、次世代が使う頃に朱塗りが剥げ、黒の中塗りが見えてきます。」と言われても現代人の時間の尺度とものの考え方にはそぐわないのかも知れない。とはいえ、安価な漆製品っぽいものが氾濫する世の中では、職人が作る漆器も消費社会にそぐわいないものだけど、だからこそ小手先のものに思われないようなものにしてほしい。根来の定義は人それぞれあるが、本歌ではなくても、通称「根来」といわれる上手の塗り物で使い込まれたものの風合いは日本人、日本的美意識の代名詞。まずは、最初に評価された部分、解釈を知った上、知らせた上で、新たものへと変化していってほしいものだ。そうしなければ苦労して作ったものも消費社会に押し潰されてしまうような気がする。

※とあくまで個人的な見解ですので深く考えないで下さい。

 

2013/06/13

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