「裸形のデザイン」のプロジェクトの大西静二氏、澄敬一氏ともに少なからず面識があるので、本年(2011年)6月25日よりフランスのドメインド・ボワビシェで両氏のプロジェクトのアルミニウムのコレクションが展示されたことが僕にとっても非常に嬉しいことである。両氏のことは既に知っている人も多くいるとは思うが、より多くの人たちに知っていただきたいので紹介したい(2009 年に「裸形のデザイン」が出版され、同年Gallery&Shop DOにて展示、2010年には無印良品有楽町ATELIER MUJIでも展示されているプロジェクト)。
彼らのコレクションのアルミニウムはタイトルの通り、余計な装飾を排し、道具やモノとしての本来の形、まさに裸にしたようなことを連想させられるものにカスタマイズされたものである。
デザインや装飾といったものは、良くも悪くもプロパガンダ的要素を含んだものが多いが、彼らの選んだものやカスタマイズされたものが簡素で強い主張をしていないにも関わらず、人々を魅了させるのはそういった要素が排除されているように感じるからではないだろうか。
デザインやアートの流れはオーガニック(リアル)なものからよりアシッド(内なるもの)なものになりつつある。余計な装飾を排する行為は、内なるものへ意識をより鮮明なものにブラッシュアップすることになるのかもしれない。僕はその簡素で強い主張をしないもの達から両氏の何者からも制約を受けていない純粋な気持ちから生まれた欲求みたいなもの、一種のヘドニズムを強烈に感じる。すべてのものが自然で違和感がなく、いやらしさを感じないのにこういった矛盾するような気持ちにさせるのは、古いもので培った本質を見極める眼と様々な製品を生み出した経験、揺ぎ無い美意識と哲学があるからこそ成せる事なのだろう。
この文章を書いているとき、デ・クーニングの言葉を思い出した。「誰かが最初に話し始めたにせよ、彼はそのつもりだったはずだ。語ることが、絵を芸術に仕立てるのだ。芸術について唯一はっきりしているのは、それが言葉であるということだ。いたるところで、あらゆる芸術が文学の問題になった。われわれは、言葉がなくても物事がそれ自体で明確であるという世界にはまだ住んでいないのだ。例えば、非常に面白い事に絵から言葉を取り去ろうとする大勢の人が、絵について語ってやまない。しかし、それは矛盾ではない。絵の中の芸術とは、もともと言葉とは無縁の部分だからこそいつまでも語ることができるのだ」
言葉がなくてもそれ自体で明確であるという世界に少しずつ僕らは向かっているのだろうか?僕らは少し鈍感になりすぎたのかもしれない・・・。
「裸形のデザイン」の活動は、アート、デザイン、古道具、骨董などの小さなカテゴリーに属さない両氏のオルタナティブでクリティカルな視点で、私達の生活のあり方に疑問を呈し、新しいライフスタイルのひとつを指し示しているように感じている。
澄敬一氏のブログ→Putit-culの日記
2011/07/14
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