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窮屈

 

Joseph Cornellの箱
Joseph Cornellの箱は、窮屈と無限に広がる感情が交差している。
どちらを表現したかったのだろう?

震災から二年、政権が変わり、世の中は少しずつ変化していることは確かである。報道も経済中心のものとなり被災地のことなどを伝える報道は格段に減ってきた。特にエネルギー問題に関しては連日あんなに報道されているのにめっきり少なくなった。たまに福島に帰ると今住んでいる関西との認識のギャップを強く感じるし、若年層の故郷に対する考え方などは、今日本の政治を動かしている中心の世代とではかなり大きなギャップを感じたりする。ということは復興の予想図も年齢によって全く異なるもの、結論から言えば、今の人たちのためのものか?未来の人たちのものか?ということだろう。全てを知っているわけではないが、今、復興で使われているお金は未来のためのものは少ないような気がする。

地方は保守的な考え方を持っている人が多く、震災以前から若年層は流失しているのでどうしても与党の意見が強く、野党の立場の意見を持っていても発言しにくい社会構造である。これは日本の地方をはじめ、あらゆる組織に属していれば感じることで少数意見は持っていても口に出さない、出せない雰囲気がある。先日帰省した祭に数人の自分より年下の人たちと話をする機会があったが、しっかりとした自分の意見を持ちつつ、コミニティーを考え、これからの未来を真剣に考えているで非常に関心した(というか何も考えていない自分に反省した)。が、復興の最前線は話やニュースを聞いたり、見たりする限り、未来へのものに対しては非常に消極的のような気がした。これは今の選挙制度の問題が大きいのではないだろうか?地方では圧倒的に団塊の世代以上の有権者の投票率が高いから、議員さんたちが地元の世論に応えようとするならばそういった流れになるのは当たり前で、そうならなければ選挙の意味もないわけだが、果たして本当にそれが正しいのであろうか?と真剣に感じたりする。原発の事故の影響を一番受けた福島で原発の推進している政党が勝つ理由はきっとそんなところにに秘密があるのかもしれない。色々な話を地元で聞くたびに本当に悩ましい限りである。現実、田舎ほど少数派は生きにくい。僕の一番嫌いな超日本的な窮屈な感覚を感じるのである。

 

2013/04/18

vol.133 イコノグラフィ- ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.135 農民芸術概論