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残欠

残欠が好きである。

ものの断片や朽ちたものの残り、具体的に言えば、仏像の手(仏手)、顔や手がないトルソーのようになったもの、装飾に使われていた彫刻の一部などに惹かれる。完璧な状態に残っているものも、もちろん好きだが、「残欠」には不思議な魅力を感じる。

如来形立像
如来形立像 唐招提寺ウェブサイトより

古美術、骨董、古民芸には、「味」と呼ばれる使い込まれた独特の表情が評価されるが、それらとは全く違った感覚のものと思っている。僕自身、煤けた黒いもの~枯れたもの、虫食いに至るものまで、無類の「味」のついたもの好きではあるけれど「残欠」は別物。「味」はときに、フォルムなどの根本的なものを覆い隠してしまう厄介な一面もある。バランスの悪さを隠したり、手垢や艶などの表情だけの部分に意識がいってしまい、形や質、構造といったものの基本的な造形を曖昧にしてしまうことがある。勿論「残欠」にも「味」が加味することもあるが、それ自体、残っている物の一部なので、今となっては全体像を実際に見ることができず、断片から、当時の全体像を想像しなければならない。ただの壊れたガラクタと思うか、造形を想像し、その美しい一部分かと思うかは、観る人に委ねられる。想像する思考を提示させてくれるから魅力があるのかもしれない。また、長い歳月をかけて作り出されたというミステリアスな部分が思考に追い討ちをかける。また、わざと壊れているような作者の意図的なものを感じない、作為的なものではないから、ますます想像力を働かせてしまう。それが、時には完璧なものより美しく見えたり、魅力的に感じたりするから本当に不思議。

彫刻や歴史的建造物などであれば理解する人も多いと思うが、僕の場合、廃屋、閉鎖された工場、未完成の鉄筋造の建物、崩れた土塀、朽ちかけたレンガの壁、使い込まれて壊れた道具などにも同じような印象を感じるものがあったりする。不完全の美とか未完成の美にはストーリーをイマジネイションさせる強い力をもっているような気がする。人と計算ではできない何らかの作用が加わらないと生まれないものが加味して偶然(必然?)作り出されたものだけそのような魅力が生まれる。

*画像はあまりにも有名な唐招提寺の頭部、両手を失っている如来形立像。「唐招提寺のトルソ」と呼ばれ日本で1番愛されている不完全な仏像。この姿だからこそプロポーションや細部が際立ち、完全だったときの姿を自分好みの理想的なものへと想像させてしまう。

 

2011/02/10

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