歴史をみているとアートとは常に社会と深く関係している。特に20世紀初頭のヨーロッパの芸術家たちの作品はその背景に政治的、社会的、経済的状況が色濃く現れていた。特に前衛芸術においては、ナチスが台頭してくるとその活動は批判されドイツ国内で展示も出来なくなり、ナチスによって迫害を受け、その活動を国外へ移す芸術家も多くいた。美術学校を出たヒトラーは、アートが人々に与える影響を熟知し恐れていたに違いない。
僕は、アートや芸術とよばれるもの、骨董であれ、絵画であれ、音楽であれどのように表現するのも、また観る側がどう捉えるかも自由な環境の時代に生まれ育ってきた。日本でいま生活を送っている人はほとんどそうだろうとは思う。一方で、日本は色々なものが自由に選択できる国でありながら、政治や人権、宗教とかいったものに対して自分の意見を発信すること、何かで表現することはタブーのような空気は社会全体に流れていて、そういったものの矛盾を幼い頃から感じていた。海外に強く興味を抱いたのは、そんな不自由さから開放されたい欲求を強く感じていたからだろう。実際に海外に行って生活を始めると確かにどんな表現、活動をしても日本と違って世間体を気にすることはないけど、色々な人種や宗教、貧富の差がある移民の多い国には日本よりも目に見えて偏見や差別が存在していた。そういった社会環境があるから表現の自由に、ある程度寛容な社会が成形されているとの見方も否めないのを感じた。当時、僕が共感を感じた多くのものがストリートカルチャーである。セレブリティーがほしがるようなものには全くといっていいほど興味は沸かなかった。音楽、アート、スポーツ(横のり系)のストリーチカルチャーと呼ばれるものの一線で活躍している人たちは、移民などのマイノリティーや裕福ではない町の出身など社会的に何らかの足枷をもっている人が多かった。彼らは自分のルーツに誇りを持ち、自分たちを受け入れてくれた国に感謝しつつも自由な表現をしていることに大きなカルチャーショックを受けたことを覚えている。アートのもつ社会性というものを強く感じ、日本の幸せな環境に育った自分はいかに表面的なものしか感じていなかったことに深く反省もした。日本でタブーとされていることは実は何かを表現するにあたって1番重要なファクターであることではないだろうか?トレンドや技術やセンス、奇抜さではなく、何を感じているかを表現するのが重要だと最近は強く感じている。自分の置かれている社会環境、もちろん政治や宗教観、死生観を含め表現者の等身大のリアリティーが人々に何かを感じさせる大きな力になりえると考えている。古いものを選んで売る僕の職業だって例外ではない。今の時代は誰でも表現者であると認識しなければならないのかもしれない。今の日本は現実を直視することを恐れているようで、それでいて以前よりも表現するのが容易じゃないようで不自然な感覚に囚われている。僕はアーティストではないので何かを直接表現するわけではないけど、このままでいいのだろうか?と不安を感じている。
2011/10/13