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日本人という意識

日本人という意識僕は日本国民という意識はあまりない。日本人としての意識は人一倍強くもっているとは思うが国家、政府に属していると言う感覚はほぼない。なぜならば近年、国家と国民の関係はすこしずつ変化し今までのように成り立っていかないと考えている。日本国民として将来を考えるから未来を想像できないのではないだろうか?国家が既に国民の生活を保障できなくなってきていることはおおよそ察しがつくわけで、近代国家という概念自体が今の時代に些かフィットしていない時代遅れのものだと思う。もし、国家に従順な国民と呼ばれる考え方を維持させたいのであれば、きっと隣国で行われている反日教育や反日運動みたいなものがナショナリズム、国民という意識を維持していく上で国家にとっては必要なのかもしれない。日本人はある意味ナショナリズムが希薄な人達で世界から見ると結構特殊なように感じている。その特殊な部分を理解し、国民という意識ではなく日本人という意識で将来を考えればもっと可能性が見えてくるのでないだろうかと僕は思っているのである。

こんな話は骨董、古美術と関係ないように思えるが実は深いところでは関係している。骨董ほど如実にその人の心理を表しているものはない。自分の何かを軸に、ものを扱っている人、集めている人は何も言わなくても伝わってくるものがあるわけで感覚の鋭い人は一瞬でそのことを見抜いてしまう。僕は、宗教美術、陶磁器、漆芸品、書画など専門のジャンルを持っているわけではないが、日本人が太古より持っている感覚みたいなものを感じるものを探している。理由はないが、なぜかそこには平穏な雰囲気を感じるわけで今のような過度な競争、争いみたいなものを感じないからだ。

色々なことを調べていく上で大陸から稲作、仏教が伝来してくる前の縄文的な思想をもった集団は争いを好まなかったらしい。決して全ての弥生的思想が戦闘的とは思わないが定住し稲作を共同で行うには統率していくことが必要で狩猟を主として縄文人のなかにきっとそれが窮屈に感じた人たち、集団いたのだろうと思う。歴史的に世界をみると大抵、旧体制の文化やものは新体制によって破壊されたりするわけだが、日本では古いものが消えず融合していく特長が多く見られる。盗難仏像を返却することをしないと司法で判断した韓国は対馬に仏像が渡ってきた頃は仏像を認めなかったわけで隣国のものを大事にしていた日本人だからこそ現代にそれが残っていたわけである。

争いを好まなかった縄文人をはじめ、文化を尊重した弥生人によって新しいものとして変化していくのである。その縄文と弥生が融合しているもの、神道と仏教の融合、日本の古来のものと大陸からのものには今のものにはない調和みたいなものを感じるわけで、それが僕にとっての、ものへの魅力のようだ。そういったものたちは日本的でありながら、ボーダーレスな感覚も備わっているわけで、はっきりとはわからないが、きっと今の社会が必要としているヒントが隠されているように思えてならないのである。

もっと多くのそういうものを見て触れて感じていくと日本人の明るい未来もきっと見えてくるに違いないと信じてやまない。

 

2014/01/16

vol.153 かをるやま ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.155 マージナル・マン