僕の骨董感

僕の骨董感 自分の骨董感について改めて色々と考えみた。

モノの評価って、誰の意見も聞かず、何の情報も得ずに自ら評価するってことは現代においてほぼ皆無と言える。多かれ少なかれ何かの影響や過去の評価を美の基準にしている。その中からオリジナリティーを追求していき、物事を突き詰めていくと肉が削られ骨格が浮かび上がり、よりシンプルなもにされていく。「洗練される・・」というものかもしれない。しかし、その骨格だけのものは、本人以外から観たら実はあまりにストレートすぎてゴツゴツとして骨のように見えてしまい、肉がないので温かみを感じないものになってしまう。ようは、「生(せい)」を感じないものになってしまうのではないだろうか。モノの真理の距離を縮めたと感じていても第三者からみたらより難解な方向進んでいると思われてしまう可能性がある。

これは死生観にも似ているし、現実主義者にも似ている。誰しも「死」よりも「生」に喜びや楽しさを感じるだろうし、モノに空想や自分にはない資質を見出した方が憧れや希望みたいなものに連想しやすい。リアリティーを求めることとは実は「死」について向き合うことなのかもしれないと最近感じる。骨董自体、人間の考える死生観と照らし合わせると「生」よりも「死」に近い。時間的な尺度から考えてもそうだし物理的にもそうだともいえる。オリジナリティーを追求するより、他人の判断や過去の評価に賛同していた方が楽ということではないだろうかとも思った時期もあったが、それは自分が評価されたい欲があるからだと気がついてから商売を全く抜きでで考えるのであれば、個人の美の感覚なんて他人に強要されれる必要も、他人からの評価も全く持って関係ないと思えるようになった。アウトサイダーアートに興味を抱くようになったのもそれからだと思う。

人間に生まれたのであるならば、誰しも生きた証をどういった形であれ残したいと思うもの。方法は人それぞれやり方があるだろう。一見自由に表現できる時代のようだが方法が多種多様にあるだけに制約が多く物事をストレートに表現しにくいように感じる。ましてや誰もがインターネットなどのメディアを使い表現者となれる今、評価はアクセス数であったり、コメント数であったりより、数字という結果や他人の目を気にしながらのものになっていってしまう。良い反応は受け入れられても悪い反応には免疫をもっていない僕らは実は飾らない表現を演じているにすぎないのかもしれない。でもそんなものはつまらなすぎる。自分の素をさらけだしたほうがおもしろい世の中になるはず。骨董ってそういうものを間接的に伝えたり、比喩的に伝えることが出来るものだと思う。だからこそ、企業の倫理や既存の価値観に感化されていない個人の純粋なものであってほしいと感じている。誰にも見せず、こっそり夜中にひっぱりだしてこそこそみることこそ骨董の醍醐味なのかもしれない。好きな骨董を見せて自分の真意を悟られるってことは結構恥ずかしいことだけど、言葉を語らずにして伝えることも出来るということ。好きな骨董をみただけでその人を感じるぐらいの鋭い感性を養いたいものだ。

 

2011/06/02

vol.36 古相馬 ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.38 Lowblow Art