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土門 拳

土門 拳
画像は別冊太陽土門拳(平凡社)より

古いものの世界にある程度足を踏み入れると、業者であれ、コレクターであれ仏教美術に触れる機会がやってくる。僕にとってはすごく興味のあるものだが商売で考えると非常に厄介というか難しい分野である。信仰が関係してくるので感覚だけではその良さを伝えられないし、信仰の対象であったものであれば仕入れの面やいくら珍しくバランスやプロポーションが整っていても、バックグラウンドみたいなものの問題も関係してくるので、僕のような青二才にとってはなかなかの難問である。もちろん多くの人が良い印象を抱くものはおのずと高価であるし、一筋縄ではいかない。本来、信仰とビジネスを結びつけることがいけないかもしれないが、古くから芸術、美術は宗教と深い関わりがあるのでその着地点を模索している最中だと思う。

そんなことを色々思いながら関連する本を見たり、写真集などを見ていると「土門拳」という写真家が頻繁に眼に飛び込んでくる。写真家としても日本を代表する1人だし、骨董、古美術界においても大きな影響力を与えた人物。彼の仏像の写真は、明らかに他のものとは異なっている。シャープというか、緊張感といえば良いのか、厳しさというのかうまく表現できないが「若造よ、近寄るな!」といわれてるかのような激しさを静寂そのものの写真から感じる。しかし、自分なりの方法でなんとか近付きたいと思うのは、子供のときに「しちゃいけない」とか「見てはいけない」ときつく言われながらも思わずやってしまうのと同じ心境だと思う。一方でその緊張感に耐え凝視すると、前述のこととは相反するような、暗闇の中の一筋の光とか、温かさみたいなものを感じるから不思議だ。写真の中に、「生と死」とか「陰と陽」といわれるものが絶妙なバランスで存在しているような気がする。

誰もが簡単に自分の写真を発表できる現在、温かみとか、ほんわかとか、現実に蓋をしてしまった空想の世界をいつも日常にあるかのような、オブラートに包んだような、他人の眼とか共感、批評を気にしすぎている写真が様々な媒体で見受けられる。かくゆう自分もオブラートで包んでいるサイドの人間だとは思うが・・・。

土門拳の仏像の写真には、信仰の対象という精神的なものを被写体にしながらも現実の社会に強く引き戻すような力を感じるのは、リアルとか真実とかが曖昧になりすぎている日本の社会に生きているからかもしれない。

 

2010.12.09

vol.11 ジョセフ・コーネル ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.13 奈良原一高