今回は言わずと知れた現在の骨董界の礎を築いた稀代の目利き「青山二郎」の勝手な思いです。 どんな人間だったかといえば、
・・・・・・・1901年生まれ。東京の裕福な家に生まれ10代半ばから骨董に対する天才的な審美眼を発揮。20代には柳宗悦とともに初期の民藝運動を支え、また実業家・横河民輔が蒐集した中国陶磁二千点の図録作成を委託され、5年の歳月をかけ編集しました。
青山のもとには小林秀雄、川上徹太郎、永井龍雄、白州正子ら昭和を代表する文化人が集い、後に大岡昇平が名付けた文化サロン「青山学院」が生まれました。北大路魯山人、浜田庄司ら多くの芸術家と交流を持ち、中国、朝鮮、日本のやきものを知り尽くした彼の美意識が、当時の古美術界に1つの潮流を生み出した言っても過言ではありません。
一方、利休、富岡鉄斎、海原龍三郎らに評論を記し、装丁した書籍は二千冊にのぼりますが、「何者でもない人生」(白州)、「やろうと思えば何でもやれた天才なのにわざとなにもしなかった男」(加藤唐九郎)と、生涯を通して職業には就かず、「高等遊民」としての人生を貫きました。・・・・・(「青山二郎の目」新潮社、冒頭より抜粋)・・・・
名前は耳にしたことがありますが、有名人と思うだけで、さほど気になる人物ではありませんでした。しかし、数年前に観た「青山二郎の目」の展示品を観て心を揺さぶられたのは言うまではありません。確かに生きた時代、彼のいた環境、裕福な家庭に生まれたことなど多くの人とは環境が違いすぎるかもしれませんが、彼は「稀代の目利き」であることは間違いないと思います(僕のようなレベルが言うことではありませんが・・)。才能がある人間は、どんな時代であれ、人が集まり、環境も自然に変化していくのかもしれません。それより僕が1番興味をもったのが生き方です。一見自由気ままに生きているようですが、素のままに生きるにはしっかりとした精神的な地盤と確固たる自分の意思がなければ押し潰されてしまう時代だったのではないかと思います。その後、彼の装丁した本を幾度か手に入れましたが、他のものにはない魅力が確かにありました。商売柄仕方のないこととは思いますが、今尚、骨董界、古美術界では彼の選んだ品や由来の「もの」にどうしても目がいってしまいがちです。いつまでも彼のものを観る「眼」が大きく影響が続きすぎるのもどうだろうと思うこともあります(あくまでも個人的な意見ですので・・・)。「もの」などの眼に見えるものではなく、彼の生き方や哲学を自分なりに探り、考え、彼の古美術の批評や選んだもの、装丁で何を表現したかったのか、人々に何を伝えたかったのかを考えるほうが大事だと思います。多くのひともそう感じているとは思いますが、情報を自由に発信でき、トレンドが短い期間で変化する時代ででありながらも、青山二郎以降、大きな変化はまだ生まれてないように感じます。それだけ彼の審美眼は強大すぎるのかもしれません。
しかし経済的に余裕があるのならば彼の選んだものを所有したいと思う気持ちも正直あります・・・。所詮、人間って勝手な生き物ですので・・・。
美なんていうのは、狐つきみたいなものだ。
空中をふわふわ浮いている夢にすぎない。
ただ、美しいものがあるだけだ。・・・・・青山二郎
2010.11.10