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誰もが表現者

アートに関して作品を観るとき必要なものはどう感じるかであって、誰がつくったのかや、どこのギャラリーでやったとか、誰が褒めていたかのかとかは全く必要ないし、そういう情報も本来いらない。

そういった、本来アートを観るべきごくごく当たり前の感覚でたのしむことは近年広がりをみせている様に強く感じる。身近なパブリックな場でゲリラ的に作品を公開したり、ネットであったり、映像であったりと普段のままの環境で、見るもの、表現するもの、両方がリアルに感じることができるアートが世界的に増殖している。

CHRIS JOHANSON

シチュエーションにあわせて作ることから、自らシチュエーションから作り出すことへ大きくシフトしだしているからだろう。良い意味でアーティストがアマチュア化している。誰でもシチュエーションを作り出し表現できる時代であるといことなのだろう。その分、観る側は、より本質を見抜く審美眼が必要なわけだが、心配しなくとも駄作は後世に残らないのは既に歴史が証明している。

音楽ではサンプリングのように、ゼロから音を作り出すのではなく過去の作品を選択しアレンジする行為はだいぶ前から作品として確立している。古美術、骨董のようにものを選ぶ作業に非常に近い感覚があるような気がする。ものを選択する行為は既にアートになっているから古美術商ももしかしたら表現者なのかもしれない。

で、骨董屋の視点で考えてみると、リアルな生活の中で、自分の選んだものを買ってもらうということは、買う人に何かを感じてもらわなければいけない。その何かは、きっとそのものが発する背景の奥行みたいなものなのだろう。背景の奥行は審美眼を持って選ばなければ生まれない。誰かの真似で取り繕ってもきっと鍍金が剥がれてしまうだろう。自分のリアルな思いこそが奥行を持たせつつ、オリジナリティーがシチュエーションも生み出していくのではないだろうか。要は自分のオリジナルなスタイルで、どう提案し、どう訴えかけるかだ。過去に評価されたものだって視点を変えれば違うものになるはず・・。今後ますます、古いものの、新しいものも流れはそういう方向に進んでいくのではないかと感じている。

2012/06/28

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