大宝寺焼

震災以降やはり東北のものに一段と愛着が沸いている。

特に東北の焼物は実用一点張りの素直なものが多いので僕はとても好感がもてる。農家で使われていたものだけに肉厚、大ぶりで堅牢なものが多いので今の住環境に合わないサイズもあるが、そんな中から現代にも合うものを見つけるのはなかなか楽しい作業である。

福島にいた頃からお隣の山形は良く仕入れに出かけた。山形は民具の宝庫。木のもの、布のもの、民間信仰のものが多くあり、素朴なものから技術の高いものまで幅も広い。特に木工、箪笥類は一般に使われていたものでさえレヴェルが高いような気がする。あのような魅力的な道具を使っていた地域は当時も文化レベルが高かったのではと思っている。そんな中で陶磁器のレベルは技術的な観点から見ると決して高いとはいえない。でもその泥臭さが僕には非常にしっくりくる。外から良い陶磁器が手に入れることが出来た為、庄内地方の窯の数は他の地域に比べると圧倒的に少ない。その少ない窯場が大宝寺焼なのである。正直、おそらくコアな民窯蒐集家と地元のベテランの骨董屋ぐらいしか知らないであろうとってもマイナーな庄内地方唯一の焼物である。唯一でしかも庶民の実用品だった為、その姿は驚くほどいやらしさを感じない。その造形は茶陶などに感じる色気なんてものは全くなく、ただ、ただ実直に、素直に作られているだけ。観ていて飽きないのはその健全な形と程よい海鼠釉のせいだろう。自然の恵の豊かな庄内地方を象徴するかのような深く、自然な色合いはすばらしい(というか釉薬の色はそれしかない)。

大宝寺焼もともと数も少ないから、なかなか入手できないし特に小ぶりなものに関しては数年間に数個とかのレベルだが見つけたときの喜びは大きい。北前舟で運ばれてきた伊万里や瀬戸のものが多く入ってきたので廃業に追いやれてしまったけど、いまのような時代に大宝寺焼のような焼物を見ているとこれからの未来への手工芸として何か意味を持っているような、伝えようとしているような気がしてならない。古い、時代遅れのものかもしれないが、この感覚は決して懐古主義ではない。

今後も東北のもののすばらしさを少しでも紹介できたらと思っている。

 

2012/05/03

vol.84 ジャクソン・ポロックと漆芸品との共通点  ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.86 現代の空間における骨董の嗜好