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唯物主義

唯物主義好きなものや扱っているものは信仰のものが多い。仏教、神道、土着的な民間信仰に深い関心があるわけだが、神や仏、天国や地獄を心底に信じているかと言えばそうではない。完全に信じていない原因は、僕が受けた教育や急激な科学の発展を目の辺りにして育ってきた環境によるものが大きいし、何より人間以外の生命体、自然や野生動物などを見ていると信仰を持っていない(おそらく)ので、地球上で人だけしかもっていないが信仰という点でも大きな疑問や矛盾を感じる大きな理由だ。

人間は自分たちの記憶や知識にないもの、事象に遭遇した際、神などに結びつけることが多々あるわけで、記憶や想像、性格によって幸福や恐怖を感じるのではないのかな・・・とも思ったりするわけである。また、信仰というものに僕の生活を大半を傾けているのならば信仰の遺物を扱うことは決してなかったことだろうから、第三者的な目線、少し冷ややかに見ているといっても否定できない点はある。

もし、神や精霊、魂といったスピリチュアルの概念ない世界で育った人間は自分の記憶や知識で説明できない事象に遭遇した際一体どのような判断を下すのであろうか?もしかしたら僕らより悩みは少なく幸せかもしれない。

3.11以降僕は神の存在を信じたい一方、神という概念に疑問を抱いた。地震や津波、原発事故、もし神がいて世の中の全てのこと森羅万象をコントロールしているのならばなぜあのようなことを起こしたのだろうか・・。それとも生や死を今の環境で考えるから苦悩し、神というものに助けを求めるのだろうか?そもそも、「今」以外に別な世界は存在するのだろうか?あの時以来、科学への疑問、信仰や神への疑問は増すばかりである。

今の資本主義中心の世界に生きる僕らは全てのもの根源に精神的ものを求め、唯心論、唯心主義なものを大事にしながらも、実際は経済活動においては唯物論、唯物主義に軸を置いているのでひとつの正解を求めようとしても答えは出てこないのだろう。いや、もしかしたら答えなどはもともと存在しなのかもしれない。世間体には理論的な人間をを装い、矛盾だらけの思想や信仰の中に生きているのである。

土着的な信仰や神仏習合のもの、特に大陸の影響を受けていない古神道の流れを感じるものは理論的なものではなく感覚的なものが多い。理論的な一神教とは異なり大した理由など存在しないのではないかと感じるものも多々ある。そういった曖昧な、矛盾のあるものに未来のヒントが隠されているような気がするである。

 

2013/05/30

vol.139 FRANCIS BACON ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.141 怖さ