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イメージ

那智瀧図
国宝「那智瀧図」鎌倉時代
根津美術館蔵

祈りの造形に対して人はどのようなイメージを持っているのだろう。
造形の裏側にある人間を越えた大きな力みたいな実体、確信のないイメージだろうか。

神社に行っても、お寺に行っても、教会でも清らかな雰囲気、日常では感じられないものを感じるところは多い。もちろん、アイコンもそれに伴って神聖なものが確かに感じられる。これは誰もが感じる部分でいわば多くの人々が育った環境によって影響され持っているイメージである(と思う)。

最近まで僕もこのイメージを持って色々と感じていたわけだが、ある時ふと神々や仏のの崇高なものの裏側に人間の生々しさを強く感じたのである。

祈りを単純に考えてみるとどんな綺麗ごとを並べても人間の単なる「欲求」「欲望」でしかすぎない。家内安全、健康、受験祈願、交通安全どれも人間の個人的な欲求だ。世界平和だってよくよく考えればどれも人間本位で考えていることでものすごい人間の欲なのである。災害から回避することだって自然の摂理からすれば傲慢なことなのかもしれないし、人間以外の生命体にとっては世界経済が破綻して戦争になって人類が滅亡した方が大概良いに決まっているのである。個人~人類レベルの祈りの大きさが変わると何やら崇高なものに思えてしまうが、結局はどの祈りも人間を中心に考えていることになる。

そのようなイメージで祈りの形をみると実に生々しいくらいの人間臭さを感じるのである。崇高なもののイメージが強いものほど、実は巧みに人間くささを隠しカモフラージュしているのではないだろうか。表裏一体、いや、そうではなく裏も表もなく、人間は自らの欲求を信仰というフィルターに通して正当化しているのだけかもしれない。

そんな僕も人間が大好きだからこそ信仰の遺物に強く興味をもつのだろう、欲深い人間なので・・・。

 

2013/02/14

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