弔い

キトラ古墳壁画「トラ」

キトラ古墳壁画「トラ」 飛鳥資料館

近頃、なぜ人々は古いものに興味が沸き起こるのかを考えている。しばしば表現されるのが「温故知新」。けれどイマイチしっくりこない。確かに古いものに新鮮な何かを感じることも多いし、現代社会には無い、何かを感じ、それを自分にとっての新しいことと解釈することは古いものを良く観察すれば誰しも湧き上がることだとは思う。

かといって古いものを懐かしむといった感じでもない。自分の生まれるずっと前のものを見て懐かしいと思うのは些か表現方法が間違っていると思う。人に輪廻転生が本当にあるならば前世という世界で見ていたのかもしれないが、前世ってどんな世界なのか、本当に存在するものなのか、よくわからない僕にはそれが納得できる答えではないような気がする。第一僕は懐古主義者ではない。

名も無き職人が作った道具、陶磁器を美しいと思うのは「弔い」の感覚に近いかもしれない。先日読んでいた本「大和古物拾遺」(岡本彰夫著 ぺりかん社)の筆者のあとがきを読み、なるほどと感じた。

「弔い」は神道的な表現で、仏教的に言うならば「供養」。弔いの語源は「とぶらい」。訪れると言う意味らしい。本当に訪れることは出来ないから、現実的に考えるのであればその人の作品、技を思い出し何か感じること、語ることが本当の供養、「弔い」ではないかと書かれていた。

古いものを見て表面的なこと、資産的な価値のことを考えている人は別として、その物の時代背景、作り手のの意図、歴史を思うこと、感じることは、当時の人々と少なからずつながりを持とうとする行為だと思う。その人たちのもとへ訪れ、何かを感じ、自分の生きる何かの糧となる力が古いものには宿っているのならばなんてすばらしいことだろう。

 

2011/11/10

vol.59 古美術の狭間に  ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.61 Stacy Peralta(ステイシー・ペラルタ)