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Armand(アルマン)

美しいと感じることは生きる上ですばらしい瞬間の1つだと思う。それは誰にも邪魔されない自分だけの純粋なものだけど、その感情を共有できたらもっと人生は楽しくなるだろう。芸術と唱えてしまうと敷居が高く権威的な何かを感じてしまうけど、普段の生活で目にするものを美しいと感じれたら人生は豊かになるのではと考えている。これは個人の気持ち、意識の持ちようで何とでもなるような気がする。

Armand(アルマン)すばらしい芸術、絵画と言われているもの、例えば「モナリザ」は本当に美しい女性の絵画なのだろうか?僕には到底そんな風には思えない。中学生の頃の美術室に飾られた薄汚れ、日焼けで色が薄くなった複製品のイメージとか、その複製品の額が誰もいなくなった夜中になると目が動くとか、その程度の記憶しかないし、モナリザが僕の美しいと思う女性像とは正直かけ離れていたりもする・・・。格式高いといわれている美術の教育を受けていないからかもしれない。あまりにも有名すぎて複製品しか観た事がないので安っぽいキッチュなイメージしか浮かんでこない。結局、歴史上の美術評論家達が押し付けた勝手な言い分に過ぎないのではと思ったりもする。彼らの異性の趣味、美の基準を勝手に押し付けるなと言いたい気分にもなる。しかしそこに資産的価値が加わるとどうだろう、評価額が高くなれば見る目が変わってくるのは人間だから仕方がないことなのだろうか?突然、美しく見えたりすることもあるのも現実。モナリザを美しいと思わせること、言わせることは結局何らかの社会的陰謀が働いているのではと真剣に感じたりもする。TVや雑誌で自宅インテリアの紹介をされている著名人達のの家具がお決まりの黒いレザーとピカピカとしたスチールのコルビジェばっかりなのと同じことなだろう(ダビンチもコルビジェも尊敬しております、あくまでも有名なものの例えとして・・・)。

そう考えるとアルマンの作品はそれらとは正反対のものに位置付けられる。普段見かけるような既製品や棄てられれいたものを組み合わせでオブジェを製作したもので、どう見てもモナリザとは違う種類のものだけど身近で僕にはすっと入り込んで来る。初めて作品を知った時、作者や作られた経緯などの知識はなかったのに感じるものは強かった。僕にとってアルマンの作品は美に基準なんて本当はないのかもしれないと改めて感じさせてくれた。ちなみに彼は古道具屋の息子だったようで、どうやらそれも共感できる大きな要因だろうと思う。

 

2011/06/16

vol.38 Lowblow Art ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.40 糞掃衣(ふんぞうえ)