FACE BOOKをはじめてからスノーボードをしていた頃の友人とコンタクトをとることはかなり増えた。今までスノーボードを含めた横のりのストリートカルチャーと骨董を無理矢理結びつけたりしていたが、僕が骨董、古美術に求めることと、スノーボードで求めていたことが同じ方向に向かっているかもしれないと自分の中で理解しはじめている。
ここ最近古いものへの興味は平たく言えば自然崇拝を感じるものへと向かっている。震災以降、ますます自然をリスペクトすることの重要性を日に日に感じているが、スノーボードをしている頃を改めて考えてみると自分では意識していなかったが自然と毎日のように向き合っていた。特にバックカントリーをかじるようになってからは山の持つ力のすごさを身をもって感じた。厳しいだけに、たまにくれるご褒美は格別。誰もいない深雪の積もった斜面をすべる感覚、気持ちよさといったら他に比べるものが存在しない。 深雪の急斜面の滑っているときの浮遊感、ターンの時に感じる重力、スピードは速いはずなのに緩やかに吹き上げる雪の結晶も見えてしまうようなスローモーションな感覚は、死という危険を感じても味わいたいと思うものだ。その一瞬を感じたい為に皆、自然にリスペクトし雪の山を登っていた。僕が篭もっていた山のローカル(白人が主)はバックカントリーでキッカー(ジャンプ台)を作る時、「Make budda(ブッダを作る)」と言っていたのは、本能的に雪山に神聖なものを感じていたからだろう。色々なポイントに先住民の言葉で名がついていたのも今思えば納得ができる。僕が今、求めるものの下地は既にその頃に形成されていたのかもしれない。
近年、新たに生み出されるもの、古いものの価値を見出されるものは合理主義、機能主義なものが多いような気がする。特にデザインや工芸の世界ではこの傾向は強い。いらないものを削ぎ落としシンプルにすることはすばらしいことだ。僕自身シンプルなもののほうが断然好みではあるが、今はそのシンプルなものも何か違和感を感じるものも多いような気がする。おそらく自然へのリスペクトが感じられないからだろう。自然はたくさんのものを人間に与えてくれるが、たくさんのものも奪う、時には命もあっさりと奪う。死の恐怖はいつも付きまとっている。普段の生活でそれを感じることはまずないし、モノから感じることはもっとない。今はそういったものを感じるモノは商業的にデメリットあるのか、削ってはいけない部分を削っているものが多いのではないだろうか?自分が何を求めているのか答えを見失いそうな時は今まで出会った友とコンタクトをとることによりそれを防ぐことができるのかもしれない。
2012/10/11
vol.107 トライバルアート ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.109 ボーンズ・ブリーゲード