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神々と仏

仏教美術を観ていく上で神仏習合ということを多少理解していないと面白さを感じない。古いものに焦点を当てていく上で信仰は非常に重要で時代が古くなれば古くなるほど切っても切り離せないものとなっていくのである。感覚だけで進んでいくと必ず限界を感じ、そんな時、自分たちが歩んできたものを認識したい欲求を持つか持たないかでその方向性は大きく変化するだろう。 人と信仰の係わり合いとモノは同じ土俵のような気がしてならないのである。そういうものの見方を会得すれば、全く違う人種の文化を観た時も感覚的に瞬時に理解し、後に理論的に納得できるのでないだろうか。

八幡三神像
国宝 八幡三神像 平安時代

日本の神々いわゆる自然神や朝廷の神に仏はどのように広まっていったのか?僕にとっての日本の仏教美術はその辺を理解することによって時代の新旧に関わらず面白さを紐解く重要なポイントなのである。

大方の見方は、仏も異国の神(外来の神)として広まったと考えられているわけだが、自然豊かな環境に生きる日本人の神は地域によっても微妙に異なるわけだから、海外から来た仏を大陸そのままの仏教で広めていくのはどう考えても無理がある。そこはさすがヒンドゥ教のたくさんの神々のなかでも布教した仏教だけに在来の神との融合は難しいものではなかったのであろう。僕はこの神と仏の融合「神仏習合」こそが日本人の意識の深い部分に宿るもの、今の日本人の価値観や宗教観を形成した大きな要因であるような気がしてならないのである。メジャーな部分は研究や資料も比較的容易に見つけることができるが、地方のごく狭い地域などに信仰されてきたものについては謎多きものばかりで原因を大方理解するのも一苦労だったりする。江戸末期~明治維新にかけて神仏分離が進み、廃藩置県により多くの神社(お寺のような神社)が整理統合し、神仏習合が激減してしまったこともそれを困難にしている大きな要因である。

今の日本はなぜか宗教や信仰について議論したり独自の解釈をしたりをしにくい環境のような気がする。どんなものでも、そういったものの初源的なものは信仰に関係しているのでモノを真剣に探求していくのであれば新旧問わず僕は必要な事柄だと思っている。モダンデザインの流れを築いたバウハウスだって突き詰めれば思想的に左だし根底には信仰が存在している。ではバウハウスに影響された今のものにそれを感じるかと問われれば感じないものが多すぎる。果たして大企業が製造する市場主義的なバウハウスチックなプロダクトにどのような価値を見出すのか?そこにバウハウスの精神はあるのだろうか?そういったものを自分の中で自問自答し解釈し、過去の遺物よりヒントをもらうことによって、自分にとってのものの価値、自分の好きなものが理解できるのではないだろうか。ものを選ぶ、作り出すといったことにおいても、そのひとつ、ひとつの解釈がきっと出来上がったものに反映しているはずだ。

日本の古いものを扱っているとやはり日本の仏教美術(特に神仏習合)の魅力を感じずにはいられないのである。

 

2013/01/10

vol.119 はじまりのはじまり ≪ 三坂堂通信 ≫ vol.121 大和古物